IQ49

IQ49の日常

IQ49

人間というものは概して自分のことを平均より上だと信じてやまないものである。例えば自動車の運転技術、おそらく9割以上のドライバーは自分は平均的なドライバーより運転がうまいと信じていることだろう。なぜなら他のドライバーというものは一時停止も守らないし、赤になった直後の信号を平気で通過する、危なっかしくてとても事故を回避する能力があるように思えない、俺のほうが運転がうまいに決まっていると。じゃあ本当に9割以上の人が平均より運転技術が高いということがありえるのか、まさかありえないだろうそんなこと。つまり人間というのは元来自分自身が集団内のどの位置に置かれているかを把握できない生き物なのだ。そして、その謎の自信によって自分の人生が素晴らしいものであると確信できる。自分の基準しか持たないということは素晴らしいことだ。断っておくとこの話に統計的な正しさはない、だが言いたいことはわかると思う。

私の人生の大部分において、私は自分の人間としての価値が周囲の人間より高いものであると信じて疑わなかった、もちろん今でも私は周囲の人間に比べて自分の価値が高いと信じて疑わない。だが、その信念を揺らがす出来事というのが人生では度々おこりえるのだ。それがこのブログのタイトルにもなっているIQ49というキーワードだ。

レッテルと言われる、人間に張り付いたメタデータは厄介なものだ。まるでそれがあるだけでその人の人生が絶望的であるかのように感じさせる。私に中度知的障害者というレッテルが貼り付けられたのは16歳のときだった。当時、定時制高校に通っており、そこの先生というのが生徒に障害者の診察を勧めるような人だった。私だけでなく他の生徒も診察を勧められていた、そういう空気だった。そうして診察を受け療育手帳が手元に届くわけである。私と同じような雰囲気を持ちながら診察を断ったものもいた。「○○くんが判定されるなら僕もひっかかるから行かん」という具合だ。もし、診察して何かの間違いで知的障害者となってしまった日には、それは人生が絶望に付きまとわれるということだからだろう。

知的障害者と言われてまず困惑したのが、自分が認定されたのが軽度知的障害者ではなく中度知的障害者であるという点だ。軽度ならまだ分かる、いわゆる健常者が風邪かなにかで調子が悪くてうっかり誤判定されましたで笑い飛ばせるからだ。「中度です」と言われようものなら、「いきなり中度ですか、せめて軽度じゃないですか?」となるのが人情というものだろう。更に言うと私は日常生活をそれほど不自由なく過ごしているわけで、いきなり一線を越えた感のある判定は謎なわけである。

調べてみると中度知的障害者というものはIQと言うものが「35-49」ほどだという。じゃあ「私はIQ49相当ですか、わかりましたよはいはい」と簡単に割り切れればいいが、事態はそう簡単に行かない。なぜなら私はIQ50とIQ100の力量差というのが数字上では2倍にしかならないが、現実世界のエネルギー量では100倍以上あるように感じていたからだ。

フォレスト・ガンプという映画がある。主人公のフォレストは考えることが苦手でIQが75しかないという設定だ。この映画を見たとき、フォレストは数倍の時間をかけたとしても知的作業という面では周りの人に勝てないと思った。フォレストと周りの思考力の決定的な差を感じたのだ。感覚としてはIQが25開くとポテンシャルが10倍差が付く感じだろうか。そのような印象があったのでIQ49という数字は衝撃だった。

もちろん今ではIQなど人間の特徴のほんの一部を表したものにすぎないと理解しており、IQによって人間の価値を決めるのは愚かだと思っている。しかし自分の軸を持たない16歳の若者にとって自分が社会から価値が低いものであるとみなされることは絶望だったのだ。