経験など大したものではない
「経験など大したものではない」と思うようになった。
というのも仕事においては50歳のベテランが14歳の中学生に劣る場合があるからだ。
IT業界において、ある程度経験を積んだプログラマであるにも関わらずとんでもないコードを書く例には枚挙に暇がない。
彼らは知らないことが多すぎるのだ。
むやみに経験に頼るべきではない。彼らを反面教師にして彼らのようにならないようにしなければいけない。
彼らの経験は古い
私達をとりまく状況が変化しなかったとしたら、彼らの経験も生きたかもしれない。
残念だが、時代は変化するのだ。
いつまでも昔の経験に頼っていても、過去のものより素晴らしいものを作ることはできない。
私は更に良いものを作りたいので、古い経験を伝えられても邪魔でしかないのだ。
彼らは経験に頼る割合が高すぎる
仕事をする上で解決方法が分からない課題が発生することはままある。 そういう場合は自分で解決方法を調べ、より良い解決を目指すものである。 しかし、経験に頼りすぎると、
- 「解決できないとあきらめる」
- 「古いやり方のみで解決しようとし、他の方法に気が付かない」
というふうに効率が悪い手段をとってしまう。
経験が生かされるのは限定的な状況である
経験が必ず生かされるとは限らない。例えばバグの発生理由で、職場固有の限定的な理由で発生するものがあるとする。
それに対しての知識を披露されたところで興味をもちようがない。
例えば「このシステムは特別で○○フラグと○○フラグが別データベースに存在して一致してないとダメなんだよ」と言ったわけの分からない御託を言われたりする。
下手くそが作ったシステムの説明をされても健全なエンジニアの精神をむしばむだけである。
内容も限定的すぎて今後お目にかかれないような場合がほとんどだろう。
あっても役に立つかわからないような経験を詰め込むよりも、
考える時間に当てたほうが建設的である。
最後に
私が40歳になったら20代に技術面でボロ負けしてると思います。残念ながら。
今のうちから覚悟しておくしかないですね。
システムエンジニアの日常
僕「うんこ漏れそう」
上司「今はトイレに行くフェーズではない。規則違反になる。もしなにかあったら責任はとれますか?規則に従っていれば責任は上の者が取ります。」
僕「漏らした」
上司「なんで漏らしたんだ!!!漏らした理由を部内のメンバー全員をCCに入れてメールするように。それと是正措置のレポートを提出するように」
上司の上司「うんこを漏らした人がいます!!!」
上司「君はうんこ漏らしたからボーナスカットね」
残業のさせ方5つと残業をしないメンタル作り
■残業のさせ方
- あなたのため 残業をするのはあなたのためだとさとす方法
「若いうちに残業すると実力がつくよ!」 「残業代がもらえる!」
- 権威主義 立場や役職を利用して残業を強制する方法
「雑魚が俺に逆らうのか!」 「誰の金で飯食えてると思ってんだ」
- 罪悪感 罪悪感を植え付けて残業させる方法
「みんなやってるのに帰るの?」 「負担がみんなに行くんですけど!」
- 人格批判 人格を批判して残業しない行為を責める方法
「君の常識を疑うよ」 「利己的で狡猾なやつは社会人として失格」
■残業をしないメンタル作り
自分を肯定する なにより自分の意見が正しいと自信を持つ。他の人が何をやっていようと気にしない、自分自身の意見を持つ
人のせいにしない ありのままを受け入れる。人のせいにしない。
誰もあなたのことを気にしていない 世間ではあなたが考えるより、あなたのことを気にかけている人はいない。なので別にあなたが残業せずに帰ろうが他の人はそれほど真面目にあなたについて考えたりしない。
システムエンジニアをプロ野球選手に例えると
一ヶ月しか練習していないのにいきなり試合に出場させられる
練習メニューはうさぎ跳びのみ
新人でも試合に出られる
35歳で定年し監督になる
監督の数が選手の数より多い
前の試合でチェンジアップを投げたらホームランを打たれたのでチェンジアップを投げることが禁止される
投げた球数で給料が決まるので、ボール球が異様に多い
野手の場合は打率ではなく、出場試合数のみが査定の対象となる
チーム内の半分以上が助っ人
IQ49
人間というものは概して自分のことを平均より上だと信じてやまないものである。例えば自動車の運転技術、おそらく9割以上のドライバーは自分は平均的なドライバーより運転がうまいと信じていることだろう。なぜなら他のドライバーというものは一時停止も守らないし、赤になった直後の信号を平気で通過する、危なっかしくてとても事故を回避する能力があるように思えない、俺のほうが運転がうまいに決まっていると。じゃあ本当に9割以上の人が平均より運転技術が高いということがありえるのか、まさかありえないだろうそんなこと。つまり人間というのは元来自分自身が集団内のどの位置に置かれているかを把握できない生き物なのだ。そして、その謎の自信によって自分の人生が素晴らしいものであると確信できる。自分の基準しか持たないということは素晴らしいことだ。断っておくとこの話に統計的な正しさはない、だが言いたいことはわかると思う。
私の人生の大部分において、私は自分の人間としての価値が周囲の人間より高いものであると信じて疑わなかった、もちろん今でも私は周囲の人間に比べて自分の価値が高いと信じて疑わない。だが、その信念を揺らがす出来事というのが人生では度々おこりえるのだ。それがこのブログのタイトルにもなっているIQ49というキーワードだ。
レッテルと言われる、人間に張り付いたメタデータは厄介なものだ。まるでそれがあるだけでその人の人生が絶望的であるかのように感じさせる。私に中度知的障害者というレッテルが貼り付けられたのは16歳のときだった。当時、定時制高校に通っており、そこの先生というのが生徒に障害者の診察を勧めるような人だった。私だけでなく他の生徒も診察を勧められていた、そういう空気だった。そうして診察を受け療育手帳が手元に届くわけである。私と同じような雰囲気を持ちながら診察を断ったものもいた。「○○くんが判定されるなら僕もひっかかるから行かん」という具合だ。もし、診察して何かの間違いで知的障害者となってしまった日には、それは人生が絶望に付きまとわれるということだからだろう。
知的障害者と言われてまず困惑したのが、自分が認定されたのが軽度知的障害者ではなく中度知的障害者であるという点だ。軽度ならまだ分かる、いわゆる健常者が風邪かなにかで調子が悪くてうっかり誤判定されましたで笑い飛ばせるからだ。「中度です」と言われようものなら、「いきなり中度ですか、せめて軽度じゃないですか?」となるのが人情というものだろう。更に言うと私は日常生活をそれほど不自由なく過ごしているわけで、いきなり一線を越えた感のある判定は謎なわけである。
調べてみると中度知的障害者というものはIQと言うものが「35-49」ほどだという。じゃあ「私はIQ49相当ですか、わかりましたよはいはい」と簡単に割り切れればいいが、事態はそう簡単に行かない。なぜなら私はIQ50とIQ100の力量差というのが数字上では2倍にしかならないが、現実世界のエネルギー量では100倍以上あるように感じていたからだ。
フォレスト・ガンプという映画がある。主人公のフォレストは考えることが苦手でIQが75しかないという設定だ。この映画を見たとき、フォレストは数倍の時間をかけたとしても知的作業という面では周りの人に勝てないと思った。フォレストと周りの思考力の決定的な差を感じたのだ。感覚としてはIQが25開くとポテンシャルが10倍差が付く感じだろうか。そのような印象があったのでIQ49という数字は衝撃だった。
もちろん今ではIQなど人間の特徴のほんの一部を表したものにすぎないと理解しており、IQによって人間の価値を決めるのは愚かだと思っている。しかし自分の軸を持たない16歳の若者にとって自分が社会から価値が低いものであるとみなされることは絶望だったのだ。